■おでこを押さえられただけで人は立てない
最初に、ちょっとした遊びをしようと思います。二人一組でする遊びです。まず一人が背もたれつきの椅子に深く座ります。背筋を伸ばし、上半身をまっすぐにしてください。そして向かい側からもう一人に、おでこを人差し指で軽く押さえてもらってください。…はい、これでもうあなたは立つことができません。…どうですか?そんなに強く押さえているわけでもないのに、立つことができなくなってしまったと思います。
立てなくなってしまったのは立ち上がりに必要な3つの手順のうち、1つを封じてしまったからです。人は立ち上がる前に無意識に3つの手順を済ませてから立ち上がります。それは@浅く座ること、A足を引くこと、そしてB上半身を前に倒すことです。おでこを押さえることで、Bの上半身を倒すことができなくなってしまったわけです。
■接地面の中に重心が入らないと姿勢を保てない
本題とは違うので詳しくは説明しませんが、これら3つの手順は全て接地面の中に重心を収めようとする目的があります。椅子に座っているときはお尻のあたりに重心が落ちていますが、立つと足の裏だけに接地面がせばまるため、このような手順を踏んでスムーズに立ち上がれるようにしています。
■失ったものは努力で手に入れればいい
立ち上がれなくなる、というのは言ってみれば障害にあたります。今まで立てていたのに、上半身を前に倒すという能力を失ってしまったために立てなくなってしまいました。
シンプルな解決法は上半身を前に倒す能力を再び取り戻すことです。来る日も来る日も一生懸命上半身を前に倒すトレーニングを行い、おでこの指を力づくで押しのけるくらいの能力を手に入れられれば目標達成です。リハビリテーションの世界では、まずはこの方法を考えます。
しかしケガや病気の性質によっては一筋縄ではいかないものも多くあります。努力しても改善できないもの、例えば交通事故で切断してしまった脚がもう一度生えてくることはありませんし、先天性の病気や筋ジストロフィーなど進行していく病気も、努力すれば何でも良くなるわけではありません。
■努力で手に入らないものはどうすればいいのか
そこでリハビリテーションの世界では2つ目の方法を考えます。上半身を倒す能力を失ってしまった、この条件のままで立ってみます。
もちろん試した人は分かるでしょうが、普通に立とうとしても立つことはできません。ポイントは“残された能力を活かすこと”。残された能力とはすなわち@浅く座ることと、A足を引くことです。
まず背もたれから上半身を離し、なるべく浅く座ってください。上半身を倒すことはできないので、まっすく起こしたままです。次に足をなるべく後ろに引きます。踵が浮いてもかまいません。浅く座ったお尻の真下あたりに足が来るくらいがいいです。この状態でまた初めのように、おでこを押さえてもらいます。ここまま立ってみてください。…今度は、立てるはずです。
■残存能力を活かす視点
先ほど3つの手順は接地面の中に重心を収めようとする目的があるとお話ししました。3つは目的が同じなので、1つが封じられても残りの2つを強化すれば目的を達成できるのです。これをリハビリテーションの世界では“残存能力の強化”と呼びます。
ひたむきな努力によって克服できる障害であれば、それに越したことはありません。しかし前述のように障害の性質によっては患者さんの努力だけではどうにもならないことも存在します。そんなときに患者さんの残存能力を正しく見いだし解決策を導き出すことこそ、私たち理学療法士―リハビリ専門職の真骨頂と言えます。